大誤算
数日後の夜更けに、ヴィレッタの不安は的中した。
つまらない深夜番組を見ながらお肌のお手入れを終えて、さて寝るかと腰を上げかけたヴィレッタの耳に、部屋の扉を遠慮がちに小さくノックする音が聞こえた。
時計は日付を越えようとしている。
「こんな時間に誰だろう」と疑問を持ちながら、ノックされた扉を細く開けるとそこには尋常な様子ではないジェレミアが立っていた。
「ジェレミア卿!」
驚いて、更に扉を大きく開けると、ヴィレッタの驚愕は焦りに変った。
普段ならしっかりと整えられている髪は乱れていて頬といわず額といわず顔のあちらこちらににかかって、血の気の引いた青白い顔と相まって鬼気迫る幽鬼の相を連想させる。
「こんな時間に一体・・・」
「ヴィレッタ!頼む!匿ってくれ!!」
驚いているヴィレッタの肩をがっしりと掴んでそう言ったジェレミアの声には必死の色が窺えた。
夜更けに異性を自分の部屋に入れるのはちょっと気が引けたが、ジェレミアのただ事ではない様子に、仕方なく部屋に招き入れたヴィレッタは、この前のときと同じ椅子にジェレミアを座らせて、自分も斜向かいに腰を落ち着けた。
「匿ってくれ」と言ったジェレミアは着の身着のままで逃げてきたのか、シャツのボタンが所どころ外れていて、上着も身に着けていない。
足も裸足のままだった。
やはりどう考えても尋常ではない。
ジェレミアは俯いて乱れた髪に手を入れ、頭を抱え込んでいる。
しばらく黙ってその様子を窺うように見ていると、少し落ち着いたのかジェレミアは一言「すまない」とヴィレッタに詫びた。
着の身着のままで靴も履かずにここに来たということは、それほど遠い場所から逃走してきたのではないだろう。
「・・・一体なにに追われているのですか?」
「・・・こんな時間にお前の部屋を訪れるのは・・・悪いと思ったんだが、他に行くところが思い浮かばなかった・・・」
「それは、構いませんが・・・」
「・・・ルルーシュ様だ」
「は?」
「私は、ルルーシュ様から逃げてきたのだ・・・」
まさかとは思ってはいたが、ジェレミアは同じ敷地内にあるルルーシュの部屋から逃走してきたのだ。
と、言うことは即ち、
「・・・またルルーシュさまに・・・その・・・、・・・襲われそうになったのです、か?」
躊躇いと困惑の色を混ぜ合わせたようなヴィレッタの言葉に、ジェレミアは首を横に振った。
ヴィレッタは少しほっとした。
「では・・・?」
「襲われそうになったのではない・・・」
「はぁ・・・」
「それはご無事でなによりです」と、言いかけたヴィレッタの手をいきなり掴んだジェレミアは大粒の涙をぽろぽろ零して、立ち上がった。
「ジェ・・・ジェレミア卿?」
少し焦ったヴィレッタを気にもとめずに、ジェレミアは泣きながら震えている。
「私は・・・、私は・・・ルルーシュ様に・・・」
「ルルーシュさまに・・・ど、どうなされたのですか?」
「・・・ルルーシュ様に、一度ならず二度までも、お、襲われてしまったのだ!!」
「・・・は?はぁ〜ッ!?」
大泣きしているジェレミアに「貴方は馬鹿ですか」と言ってやりたかったが、一応はコレでも嘗ての上官である。
その言葉をぐっと呑み込んで、呆れた表情でジェレミアを見ながら、襲われてしまった後に逃走したのでは意味がないのではないかと考える。
もっとも、それほどの冷静な判断が今のジェレミアにできるかどうかは不明だ。
或いは、気が動転したまま逃げ出してきたということも考えられる。
それが証拠に、ジェレミアは酷いショック状態に陥っているようだった。
「と、とにかく、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられると思うか?・・・私は・・・わたしは・・・」
「まぁまぁ・・・」
「・・・ルルーシュ様に襲われたことについては、お前に言われたとおり・・・犬に手を噛まれたとでも思って諦めることもできるだろう・・・」
「はぁ・・・まぁその方がよろしいのではないかと・・・」
「だがしかし!私は自分が信じられないのだ!」
「・・・と、言うと・・・他になにか・・・?」
「わ、私は・・・私は・・・、こともあろうか、ルルーシュ様に犯されて感じてしまった自分が信じられないのだ!」
「・・・・・・・・・・・・!!」
いきなりヴィレッタの平手がジェレミアの生身の右の頬を襲った。
「い、いきなりなにを・・・?」
「馬鹿ですか貴方はッ!?」
ヴィレッタは顔を真っ赤にして仁王立ちに立ち上がり、ジェレミアを睨みつけている。
ジェレミアは呆然とした顔でそれを見上げた。
なぜ自分が平手打ちをされたのかなど、まったく理解していない。
「貴方は私をからかっているのですか?それとも、惚気ているだけなのですか!?」
「・・・え?わ、私はそんなつもりは・・・」
「そんな話を・・・と、年頃の女性に・・・していいと思っているのかッ!?」
「年頃って・・・、お前と私はそんなに歳が違わないではないか・・・」
「・・・・・・・ッこの大馬鹿者!!女心というものを少しは理解しろッ!!」
「・・・おんな、心?」
性格はキツイがヴィレッタは列記とした女性である。
ジェレミアはそれをすっかりと忘れているようだった。
結局、ジェレミアはヴィレッタを異性としては見ていないのだ。
そう考えると、ヴィレッタはなんだか自分が情けなくなって、湧き上がる怒りをそのままジェレミアにぶつけることしかできない。
「貴方は大馬鹿者で、仕えるべき主君に誘惑されて逆に襲われて、・・・し、しかも、自分よりううんと年下の男とのセックスに「感じた」だと?そんなことをこの私にぬけぬけとよくも言えたもんですね!その神経が信じられない!!そんなことだから貴方は・・・貴方はッ!」
怒りで震える拳を握り締めて、しかしヴィレッタはその拳を振り下ろすことができない。
ジェレミアはヴィレッタの言葉にトドメを刺されて、もはや「この世の終わり」のような絶望的な顔をしている。
呆けた表情で涙を流しているジェレミアを殴る気にはとてもなれなかった。
自分の中に湧き上がった怒りが徐々に引いていくのを感じながら、気持ちを整理させるように大きく息を吐く。
少し冷静さの戻ってきた頭で、今自分がやらなければならないことを考えて、ヴィレッタはチェストからフェイスタオルを取り出すと、それでジェレミアの涙で濡れた顔を優しく拭いた。
―――・・・私は、貴方が好きだったんですよ?
その想いは結局ジェレミアに届くことなく、時間の経過と共に消えてしまったけれど、死んだと思っていたジェレミアが生きていたことを知った時は、やはり嬉しかったのだとヴィレッタは思う。
昔のような気持ちをジェレミアに持つことは今はないが、こうやってジェレミアの世話を焼くのは自分の役目なのだ。
顔を拭いてやって、乱れたジェレミアの髪を指で梳くようになでて簡単に整えると、ヴィレッタはいつもの冷静で気丈な彼女に戻ることができた。
ジェレミアは怯えたような瞳で、ヴィレッタを見ている。
しかし、自分に向けられていると思っていたジェレミアの視線は、ヴィレッタよりも更に遠くを捉えていることに気づき、その怯えの根源を確かめるべく、ゆっくりと振り返ってジェレミアの視線の先を追った。
「やはりここに逃げ込んでいたか・・・」
ジェレミアの怯えの根源は、いつからそこにいたのか。
壁に背中を預け、腕を組んだルルーシュが無表情な瞳で二人を見下ろしていた。
「・・・ル、ルルーシュ・・・様・・・」
「な、なぜ貴方がここに!?」
「こんな夜更けに鍵もかけていないとは無用心だな。それとも来客の予定でもあったのか?」
「そんなことはどうでもいい!なぜジェレミア卿がここにいるとわかったのですか?」
ヴィレッタの問いにルルーシュは鼻で笑う。
「ジェレミアの行く場所など限られている。それにその格好ではそんなに遠くには逃げられないだろ?予測するのは簡単だ」
「し、しかし・・・」
「なんだ?まだ何かくだらない質問でもするのか?」
「あ、貴方はもうこの人には用はないのではないのですか?」
「随分と知ったふうな口を利くじゃないか。この男になにを聞いたかは知らないが、お前には関係のないことだ。・・・そうだな、ジェレミア?」
ルルーシュの声に、諦めているのか、それともヴィレッタを巻き込みたくないだけなのか、ジェレミアは俯いて「はい」と覇気のない声で小さく返事をした。
「ジェレミア卿!」
「ヴィレッタ・・・もういいんだ。・・・すまなかったな。迷惑をかけた・・・」
「貴方は・・・貴方はそれでいいんですか!?」
ジェレミアは答えなかった。
顔を俯けたままヴィレッタと目を合わせることなく、ふらりと立ち上がりゆっくりと歩き出す。
それを確認して、ルルーシュは預けていた背中を壁から離すと、何も言わずに部屋を出て行った。
その後ろに従って歩く肩を落としたジェレミアの後姿に、ヴィレッタは声をかけることができない。
本当は引き止めたいのに、見送ることしかできない自分が情けなかった。
今のジェレミアは見えない鎖に繋がれている、ルルーシュの従順な下僕だ。
ヴィレッタがなにを言ったところで、ジェレミアはルルーシュの言葉には叛けない。
なにがジェレミアをそうさせたのか。
確かに、傍目から見てもジェレミアはルルーシュに従順な臣下ではあったが、自分の意思はしっかりと持っていたはずだった。
それが今のジェレミアにはまったくない。
意思のない人形のように、主の言葉に従っている。
―――変ってしまったのは、いつからだ?
そう考えると、行き着く答えは一つしか思い浮かばなかった。
頭の中に浮かんだ答えに、ヴィレッタは震えた。
今更ながらにルルーシュの計算高さに戦慄が走る。
ルルーシュにはヴィレッタがジェレミアに感じていた庇護欲や恋愛感情は存在しないのだろう。
ただ自分を絶対的な存在として認めさせるためだけに、ジェレミアを抱いたのだ。
感情が伴わない行為でも、着実にそれを実行する冷徹さをルルーシュは持っている。
優秀すぎる主を持ったが為に、ジェレミアは自分が理不尽なめにあっていることに、気づいているのだろうか。
想いを寄せていた人の変わり果てた姿を思い浮かべて、ヴィレッタの目に熱いものが湧き上がるのをどうすることもできない。
ジェレミアが出て行った扉をじっと見つめて、溢れてくる涙が止まらなかった。
「ジェレミア。・・・なぜ逃げた?お前は俺が怖いのか?」
「・・・わかりません」
「では、なぜ怯える?」
「そ、それは・・・ルルーシュ様が・・・」
「やはり、怖いのだろう?」
「・・・申し訳、ございません・・・」
部屋に連れ戻されて、ジェレミアは俯いたまま、どうしていいのかわからずに扉の前に突っ立っていた。
ルルーシュは自分のシャツのボタンを外しながら、「こっちへこい」とジェレミアに命じた。
言われても足が竦んで動けない。
ボタンを外し終えて、シャツを脱ぎ捨てたルルーシュがジェレミアの手首を掴んだ。
ビクリと震えるジェレミアに溜息を吐いて、「そんなに怯えるな」と言ったルルーシュの声が優しかった。
しかし、どんなに優しい声をかけられても、結局やることは一緒なのだ。
「怯えるな」と言われてもそれは無理なことだ。
ぐいと腕を引かれて、ジェレミアは諦めたように歩き出す。
向かった先はジェレミアの予想していた寝室ではなく、なぜかバスルームだった。
「ル、ルルーシュ様!?」
―――まさか、こ、このような場所で!?
「か、勘違いするな!」
顔面蒼白になっているジェレミアの考えを読んで、なぜかルルーシュは顔を赤らめていた。
主の焦った表情をはじめて見たジェレミアは、それを珍しいもののようにじっと見つめている。
ルルーシュの指がジェレミアのシャツにかかり、それを脱がせると少し照れたように視線を外す。
「処理・・・まだしてないんだろ?時間が大分経ってしまったが、ちゃんと始末しないと後が辛いぞ・・・」
「あ・・・あの、ルルーシュ、様・・・?」
「なんだ?」
「ひょっとして、・・・そのために、私をお探しになったのですか?」
「そうだ」
連れ戻されて、てっきり行為を強要されるものだとばかり思い込んでいたジェレミアは、呆気にとられている。
逃げ出す必要も、ルルーシュに怯えることも、なかったのだ。
しかし、だからと言って、ルルーシュに性交後の処理を手伝ってもらうわけにはいかない。
「い、い、い、いいです!じ、自分でできますから・・・どうか、私には構わないで、お休みください!」
「なにを今更恥ずかしがっているんだ?俺がやってやると言っているんだから大人しく従え!」
そう言って、ルルーシュはジェレミアの下肢を覆っている服を無理矢理脱がせにかかる。
ジェレミアは必死に抵抗して、終には床に座り込んでしまった。
「・・・そんなに恥ずかしいのか?」
「あ、当たり前です!」
「明かりを消して暗くしても嫌か?」
「嫌です!」
「大人しくしてたら褒美をやるぞ?」
「・・・い、いりません!」
「では、命令だと言ったら?」
「そ・・・それ、は・・・」
言葉に詰まって、ジェレミアは困惑した瞳でルルーシュを見上げた。
ルルーシュは心底可笑しそうにクスクスと笑う。
「冗談だ」
「・・・は?」
「これ以上お前を困らせたら、本当に嫌われてしまうからな・・・」
「ルルーシュ、様・・・?」
座り込んだままのジェレミアに背を向けて、ルルーシュは苦笑を零す。
本当は嫌がるジェレミアをもっと困らせてやろうと考えていたのだが、真面目すぎるジェレミアが可笑しくて、その気が失せてしまった。
「汚れた服はそこのカゴに入れておけ。明日一緒に洗濯に出してやる。着替えはそこの棚にあるのを・・・咲世子に頼んで用意させたからサイズは多分大丈夫だ」
咲世子の見立ては正確だ。
「それから」と、ルルーシュは言葉を続ける。
「・・・終わったら逃げ出さずに俺のところに来るんだぞ?」
背中を向けたままそう言ったルルーシュは、ジェレミアの返事を待たずに、脱衣室を後にした。
残されたジェレミアはルルーシュの姿が見えなくなったことで、少しだけほっとした。
これ以上、傍若無人な主になにかを強要されたら、どうしていいかわからない。
しかし、安堵した気持ちとは別に、なにか釈然としないものがその胸の中にあるのも事実だった。
ルルーシュのセックスは無茶苦茶だった。
相手の気持ちを尊重することもなく、心を通わせることもなく、意思すらその言葉で抑えつけて、まるで無機質な玩具を扱うような態度でジェレミアの身体を弄ぶ。
少しでも逆らえば、容赦なしに暴言を浴びせられ、「お前などいらない」とつまらなそうな顔をする。
「いらない」と主に言われることは、ジェレミアにとって「死ね」と言われることよりも辛いことだった。
ルルーシュはそれを理解して服従させる手段として使っているのか、それとも本気で「いらない」と言っているのか、ジェレミアには解からない。
困惑するジェレミアを見るときのルルーシュはほとんど無表情で、その表情からはなにも窺えなかった。
それでも、逃げ出したジェレミアをわざわざ探しに来てくれるルルーシュはやはり優しいのだと思う。
本当に不必要だと思っているのなら、探しに来る必要もないだろうし、着替えも用意するはずがない。
汚れた身体を洗い流して、ルルーシュが用意してくれた真新しい夜着に身を包むと、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。
このまま逃げ出すことも可能だったが、それは躊躇われた。
諦めて、主の待つ寝室へと足を運ぶ。
「ジェレミア」と、名前を呼ばれて、ルルーシュのいるベッドの傍で、いつものように膝を着く。
ルルーシュはそれを見て、声を出して笑い出した。
「あの・・・なにか?」
「いや。その格好・・・」
「は?」
「パジャマは似合っていなくはないが、その格好で膝を着かれるとなんか変だ」
ルルーシュはケラケラとベッドの上で笑い転げている。
言われてみれば自分でも確かに可笑しかった。
「あ、あの・・・私はどうすれば?」
「そんなことは自分で考えろ!俺は寝る」
「はぁ・・・。お休みになる前に一つお聞きしたいのですが?」
「なんだ?」
「ルルーシュ様は私のことをどう思っていらっしゃるのでしょう?」
「どう・・・というのは?」
「・・・なぜ、あのようなことを・・・私に?」
「あのようなこと・・・とは、どんなことだ?」
にやけながらそう言うルルーシュは明らかに、わかって言っている。
「そ・・・その・・・、閨のお相手を・・・」
「・・・さぁな?なんでか自分でもわからん」
「は?」
「だが、お前は従順すぎてつまらない。もう少し抵抗して愉しませてくれると思っていたんだがな・・・」
「抵抗など、私がルルーシュ様にできるはずがありません」
「そのようだったな・・・次からはもう少しやり方を考えることにするよ」
ルルーシュの言葉に目を見張り、ジェレミアは自分の中にあった釈然としなかった何かがすうっと消えていくのを感じた。
「ルルーシュ様?ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「好きにしろ」
背中を向けている主の許しを得て、ジェレミアはルルーシュの隣に潜り込むと、その背中を強く抱きしめた。
「・・・鬱陶しい」
「嫌ですか?」
「・・・嫌じゃないが、鬱陶しい」
「私はルルーシュ様が好きです。大好きです!愛しています!!」
「それは、どーもありがとう・・・」
「ルルーシュ様・・・?」
それっきり会話は途切れ、翌朝目を覚ましたルルーシュは、ジェレミアの告白にうっかり「ありがとう」と言ってしまったことを後悔した。